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「言われた仕事を誤読して、やりたいことに変える!?」 山納洋のはたらくセカイ

2016.08.16 NEWS

山納洋のはたらくセカイ_REPORT
世の中には、様々なはたらき方、生き方があります。
ハローライフでは、毎月さまざまなゲストをお呼びし、そのゲストが見ているセカイを覗かせていただくイベント「はたらくセカイ」を開催しています。
第七回目のゲストは大阪ガスにいながら様々な文化的活動を仕事でされている山納さん。
当日のトークイベントの中から「やりたいこと」と「仕事」のバランスに悩む方のヒントとなるお話を中心にレポートにまとめました。

<profile>
山納洋(やまのう・ひろし)
大阪ガス(株)近畿圏部 都市魅力研究室長/ common cafeプロデューサー

1993年大阪ガス(株)入社。神戸アートビレッジセンター、扇町ミュージアムスクエア、メビック扇町、(財)大阪21世紀協会での企画・プロデュース業務を歴任。2010年より大阪ガス(株)近畿圏部において都市開発、地域活性化、社会貢献事業に関わる。一方でカフェ空間のシェア活動「common cafe」「六甲山カフェ」、トークサロン企画「Talkin’About」、まち観察企画「Walkin’About」などをプロデュースしている。著書に「common cafe―人と人とが出会う場のつくりかた―」(西日本出版社)「カフェという場のつくり方」「つながるカフェ」(学芸出版社)がある。

■バーで憧れの大人と出会っていた新入社員時代

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塩山:(以下、塩)山納さんは普通に就職活動をされたんですか?

山納:(以下、山)大阪ガス以外では、マスコミに行きたくてNHKなども受けていました。大学時代に社会学とか環境問題とかをやっていたので、社会問題や社会悪に切り込んでいくような番組をつくりたいと思っていたんです。社会的な正義をどうやったら実現できるのかなって思っていました。それでNHKで番組つくろうと。
大阪ガスは環境に関われそうな会社だと思っていて、他のエネルギーに比べて環境の負荷が少ないんです。環境に優しく、将来の地球のことも考えられる会社だなと思ったのが選んだ理由でした。

塩)最初の配属はどんな仕事だったんですか?

山)最初に配属されたのは、製造所の総務の仕事。でも現場で仕事をやってみると職人のようにスキルを磨いていくような仕事でもなかったですし、「問題が起こらないのが当たり前」の仕事で、褒められないけど間違ったら怒られる・・・というような仕事も多いんです。自分はこのまま続けられるのかな?と思い、中小企業診断士の通信学習を始めてここから抜けだそうとしてみたりもしました。
その当時堺に寮があって、駅前に夕方5時に開く洋服屋兼バーがあったんですが、そこに週3日ぐらい入り浸ってました。デザイナーとか芸術系の人が集まっていてヒッピーみたいな雰囲気があるバーなんですが、そういう人達とビール飲みながら話をするんです。
今の仕事のまま50歳のおっさんになるよりは、この飲み屋のマスターのほうがなりたい姿だななんて思ってました。

■社内公募制度で劇場スタッフへの異動!

塩)そういった仕事から、大阪ガスが運営していた扇町ミュージアムスクエア(OMS)という劇場、映画館、カフェが一体になった複合文化施設などを担当されるようになりました。それは希望を出されたんですか?

山)社内公募制度っていうのが会社にあったんですね。大阪ガスのようなエンターテインメントに関係のなさそうな会社がOMSを始めちゃったんですね。堅い仕事なので、できる人がなかなかいない。手をあげた人が3人ぐらいしかいなかったので、3分の1ぐらいの確率だったんじゃないでしょうか(笑)
希望が叶ってやりたい仕事につけてよかったんですけど、その瞬間からオンとオフがなくなりました。仕事終わりにも劇団の人と飲みなどで付き合っていくことの精神的ストレスになかなか馴染めませんでした。芝居をやったことがない僕が、芝居をやっている人たちと話をするのは辛かったです。
「うちの芝居見たことありますか?」「ないです。」・・・そこで会話が終わっちゃうんです。
だからもう必死で。休みの日には芝居観に行って当然、本読んで当然っていう生活です。そのうち慣れますが、オンとオフがないっていうのが当たり前の生活になりました。

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塩)なるほど。山納さんの働き方が大きく変わった機会だったんですね。

山)でも劇場スタッフにはなったんですが、舞台もやってないし、台本も書いてないし、自分はまだ何者にもなれていないなぁって。そしてどんなに長くても5年ぐらいで次の部署に行くわけでしょ。自分は何者かにならないと消えてしまうんじゃないかって、2〜3年その現場にいてじりじりとした焦りが生まれはじめました。30歳前ぐらいだと思いますね。
そのころ始めたのがトーキン・アバウトというトークイベントです。それまでに役者の方に来ていただいて話を聴くイベントはやっていましたが、ゲストを呼ばずにテーマを決めて自由に喋るしゃべり場という形で始めました。扇町界隈の10箇所で、最盛期は月に15本ぐらいやってたんですね。ある場所では現代アートの話が、別の場所では演劇の話が、という状態です。そんな企画を6年間で700回ぐらいやりました。

さらに、2000年にトーキン・アバウトが始まったんですが、その翌年にその10箇所のうち1箇所のバーが閉店することになったんです。そこがすごく人が繋がる素敵な場所だったので、ここをどうにかしたいと思ってしまったんです、サラリーマンなのに(笑)
そこで日替わりマスターをしようという仕組みを考えたんです。月に1回だけマスターになりたい人を募集したら、40人ぐらい集まったので、なんとか運営できるんじゃないかと。売上が1万円超えたら超えた分の3割をお渡ししますというシステムです。これが30歳のころ。大阪ガスの社員なのにサイドビジネスを始めることになったんです(笑)

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塩)大阪ガス的にはOKだったんですか?

山)厳密に言うと就業規則には触れていなかったんです。他の所で雇われるのはNGだったけど、自ら事業をやることはダメとは書かれていなかった。
そんなことをやってるうちに、劇場のスタッフのままだったら消えてしまう運命にあると思っていた自分が、「初めてのことをやった人」になっていったんです。
「あのトーキンアバウトを企画された方ですか?」という取材も受けるようになっていって、単に劇場のスタッフっていう立場じゃないポジションが見えてきたという。(今日のテーマである)僕の仕事のスタイルっていう所でいうと、やれって言われていること以上のことに踏み出すことで、自分で仕事をつくっていくということでしょうか。

■10求められた仕事に15で返していくと、仕事がやってくる

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塩)やれと言われていること以上に踏み出す。

山)その後部署が変わり、メビック扇町でコラボレーションマネージャーをやっていた時に身についた仕事のやり方なんですけど、クリエイターの人って妥協が無い人が多いでしょ。「自分印(じぶんじるし)の押せる仕事をしていかないといけないでしょ」っていう感じ。でもサラリーマンって「これぐらいでいいやろ」っていう仕事の仕方をしたりしますよね。上司が10やれと言った仕事を、「5だと怒られるから、8か9ぐらいまでなんとか仕事をしていこうか」っていう。でもクリエイターの人や独立してる人って、10で依頼されたものを15で返そうとするでしょ。3案ぐらい考えていって、仰っていたことはこういうことですかね?でもこうしたらもっと良くないですか?っていう。
そういう働き方にすごく感化されたんです。頼まれてもいないことだけど、でも多分そうしたほうがいいと思いますっていう仕事の仕方。+5の仕事をしていくっていう癖がメビック時代につきました。

塩)サラリーマンでありながら、そういうクリエイターに近い意識で仕事をされてたんですね。

山)本当に第一線を走っている人にはどんどん仕事が来るでしょ。それって、+5をやってその人にしか出来ない仕事をやってるんですよね。「あ、その原理で仕事が動いてるんだ」っていうことに気づいたんです。そして、それってサラリーマンにも出来ることなんじゃないかなって思うようになっていったんです。

塩)スーパーサラリーマンというか、サラリーマンのイメージを変えていこうと?

山)そこまでは考えていなかったんですが、こういう働き方をしていると、サラリーマンなんだけどよそから仕事がやってくるようになるんです。「部長、マネージャー、外からこんな仕事がきましたけどどうしましょう?」「じゃあ仕事の時間で行って来い」って。仕事の時間の何割ぐらい本来の会社の仕事をしているんだろうっていう状態です。

塩)ギャラは会社の売上になるんですか?

山)そうです。でも経験としては自分がもらっているんです。

■会場からの質問

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会場)私は今、会社でやっている仕事と土日にやっている好きなことがかけ離れています。そろそろ仕事をフェードアウトしようかなと思うんですが、土日にやっていることは手弁当だし仕事にした時に周りがいくらそれにお金を払ってくれるかわかりません。周りの大人からは「それは土日にやっとき」って言われるんですけど。仕事とやりたいことのギャップをどう埋めていけばいいでしょうか。

山)僕はやりたいことが自在に変わるんです。おそらく変えないといけないから変わったんだと思うんですけどね。2003年にOMSが閉館したんですけど、その時に「この施設を閉じたくない」っていうことが僕の夢だったら、途方もなく難しかったと思うんですね。年間数千万円ぐらいお金をかき集めてこないといけないからです。

でもその後に始めたコモンカフェが、最大50名しか入らない劇場ですけど、実験劇場としていいんじゃないかって思えてきたんです。そこだったら20数万毎月払っていけばいいですから。OMSを復活させるんじゃなくて。自分が作れるOMSをつくろう、という風にやりたいことがちょっと変わってきたんです。やりたいことのイメージが変わると、課題が変わってくるんです。

最初は諦めからそうなったと思うんですけど、自分がやりたいとガチガチに思っていることをほぐすっていう、そんな感じです。やりたいことがガチガチにある人に崩せって言っても難しいかもしれないですが。

会場)今大学3年生でもうすぐ就活を控えています。私は山納さんがおっしゃっていたような、まだない仕事をつくっていうことがしたいんです。でもそれって何屋さんって言える名前のあるものではないんです。私は社会性もあり事業性もある仕組みを作っていきたいんですけど、それってどの仕事でも言えることですよね。山納さんの話を聞いちゃうとどこでも実現できるのかなって思えてきましたし大学からもとりあえず業種を絞りなさいって言われるんですけど、入った職場でやりたいことと違う仕事に就いて悩むこともあるのかなって思うと、どういう風に業種を絞っていったら満足していけるのかなっていう。

山)製造とか総務の仕事をしていた時に思っていたのは、仕事とかルーティンってどこまで面白い仕事に変えられるのかなってこと。当時の製造所はぶっきらぼうに電話に出る人が多い部署だったので、マナーアップ運動を進めなさいって言われた仕事があって。抜き打ちでチェックの電話をかけましょう、とか色々言われるんですけど、僕はそれを誤読して「わかりました、じゃあマナーアップビデオをつくります」とか言って製造所の女の子に演じてもらって映像制作の仕事に変えちゃったり(笑)マナーアップ新聞を作って編集長になったりして「取材いってきます」とかやってました。やれって言われている仕事って、どこまでの融通を持って、自分がやりたい仕事に変えられるのかっていうことを試していたんだと思います。

やることになってる仕事をこう解釈しました、これでいいんですよね?ってそこに自分が面白いと思えるものを混ぜるっていう。目の前にあるものを置き換えることって、よっぽどガチガチな会社でなければやりたいことをやる余地はあるんじゃないかなと思っています。

■プロローグ

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トークイベントの最後で山納さんへ続いた質問は、多くの人が胸の中でモヤモヤしていた「やりたいこと」と「仕事」のバランス。柔軟にやりたいことを変えたり、与えられた仕事を「誤読」することで、大企業にいながらも自分のやりたい仕事をしてきた山納さんのお話は、参加者の方々が生き方・働き方を考えるいいヒントになったのではないでしょうか。
また次回のはたらくセカイも、お楽しみに!!