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グッドデザイン賞受賞
「漫才ブームの激動の中、NSCを立ち上げた竹中さんが見てきたセカイとは」 竹中功のはたらくセカイ
16.02.27

「漫才ブームの激動の中、NSCを立ち上げた竹中さんが見てきたセカイとは」 竹中功のはたらくセカイ

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世の中には、様々なはたらき方、生き方があります。
ハローライフでは、毎月さまざまなゲストをお呼びし、そのゲストが見ているセカイを覗かせていただくイベント「はたらくセカイ」を開催しています。今回は、よしもとクリエイティブ・エージェンシー専務取締役を経て、現在ミクル株式会社で活躍されている竹中功さんをゲストにお招きしました。
(聞き手:塩山諒)

<profile>
竹中功(たけなかいさお)/ミクル株式会社 CINO(チーフ・イノベーション・オフィサー)
1959年大阪市生まれ。同志社大学法学部法律学科卒業、同志社大学大学院総合政策科学修士修了。1981年に吉本興業株式会社入社後、宣伝広報室を設立し、「マンスリーよしもと」初代編集長を務める。吉本総合芸能学院(よしもとNSC)の開校やプロデューサーとして、心斎橋筋2丁目劇場、なんばグランド花月などの開場に携わる。河内家菊水丸の担当として、イラク、ソ連、北朝鮮公演などを実施。大阪市中央区コミュニティFM局「YES-fm」1996年開局、翌1997年にコンテンツサプライヤーYES VISIONS設立。映画製作では「ナビィの恋」「ホテルハイビスカス」「無問題」「無問題2」等がある。
その後、「吉本興業百年史編集室」「創業100周年プロジェクト」を担当し、コンプライアンス・リスク管理委員長、よしもとクリエイティブ・エージェンシー専務取締役、よしもとアドミニストレーション代表取締役などを経て、2015年7月退社。ニューヨーク・ハーレムでの生活を経て2015年10月より現職。

■新人研修の会長挨拶は「芸人はなぁ、商品や!以上!」

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塩山:以下、塩)竹中さんは新卒で吉本に入られたんですよね?

竹中:以下、竹)そうですね。心斎橋筋2丁目劇場の入っていた所が本社やったんですよ。新人研修には今はもう亡くなった林正之助会長が挨拶に来はって「おまえらなぁ、覚えとけや! 芸人はなぁ、商品や! 以上!」だけ言って5秒で帰らはりました。意味分かりませんでしたね。でも研修のあと部長に「芸人は商品やから大事にしーやってことや。」ってその意味を教えてもらったんですね。それでやっとわかったんです。「ケーキ屋さんの焼いたケーキ、ちゃんとおいしく食べてくださいね、こかさんように持って帰ってくださいね」って言うんと一緒ですよね。「“商品”ってことは大事にせなあかんことやな。傷つけられたら腹立つし、傷んだからってひと盛りなんぼで売ったらあかんよな。」っていうことを最初に教えてもらったんですよ。

その当時の部長が「商品やから大事にせーよ!」って言ったことは今でも心に残ってますもんね。そっからずーっと、芸人のためならなんでもやれることやったろ思たんです。ほんまそう思いましたよ。

■入社3ヶ月でいきなり宣伝広報室の立ち上げ!?

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竹)その頃ちょうど漫才ブームの頃で、人足りんからみんな芸人のマネージャーになっていってたんですね。だから僕もマネージャーになると思ってたんですけど、入社3ヶ月目で辞令が出て「宣伝広報室開設」って書いてあったんですよ。「宣伝広報室ってなんですの?」って聞いたら「そんなもん自分で考えろ。」って。大学の同期に他の会社行ってるやつとかいるでしょ、そいつらに聞いたら「広報?そんなもんないで」って。35年前には流通やメーカー、製造、サービス業の大企業でも殆ど広報ってなかったですね。総務がお客様センターやってるとか、お客様問い合わせ室持ってるとかはありましたけど。マニュアルもなかったし、広報ってものの概念なかったですもん。

で、また部長が分かりやすく「おまえとりあえず金かけんとな、テレビと新聞、ラジオで吉本の文字が載ったり、名前を言うてもらえるようにしてこい!セット新聞もスポーツ新聞も全部や。俺、記事の大きさを定規で測っとくから。」って言うて。でもそれちょっとおもろいなー思てね。記事の価値を中身じゃなくて大きさで測るって言うんですよ。だからタレントさんがスピード違反で捕まっても「よかったなぁ顔覚えてもらえて」って僕言うてましたもん。

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塩)記事になれば良しとしていたんですね(笑)

竹)そう。そこではお金をかけずにプロモーションするっていう、どうやって新聞に記事を書いてもらうかっていうのが仕事やったんです。FAXもワープロもなかったから、手書きで新聞社とかに手紙送るんですね。届いた頃に電話するんですけど、なかなか繋がらんのですよ。「また掛けます」って掛けてもなかなかとりあってくれない。

ほんで悔しい思いしてたんですけど、6ヶ月もせんうちに知恵ついたんですね。実は僕毎日新聞切ってたんです。スクラップです。すると僕が送ってる情報には取材来えへんかったのに、こんな記事が載ってるわっていう。だんだんこういうのが載るなっていうデスクの気持ちがわかってきたんですね。まぁ門前の小僧みたいなもんです。そうか、新聞記者が欲しがるニュースを俺が作らなあかんなって。それに気づいたんは自分で新聞を切ってるからですよ。他の人たちは切り終わったスクラップしかみてないから、隣に何の記事がどんな大きさで載っているのかとか比較して見てないんですよ。今のネットでもそうかもしれませんけど、前後左右が大事なんですね。

塩)3ヶ月でそんな仕事を任されたっていうのは、何かあったんですか?

竹)部長に「やったことないですわ」って言うたら、「大丈夫大丈夫!こんなんやったことあるやつなんておらんのやから、誰がやっても一緒や!」って言うてました。やったことあるやつがおれへんっていうのは分かるんですけど、その後の「誰がやっても一緒や」ってのはよう分かりませんでしたね。「お前にしかでけへん」ぐらい言うてほしかったですけど。

塩)そうですね(笑)でも選ばれてるわけですよねぇ。

■ダウンタウンを生んだNSCの誕生秘話

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竹)で、広報はじめて3ヶ月後に言われるのがNSC開校ですよ。10月ですよ?22歳の会社入ってまだ半年目の社員ですよ。それに「おまえ学校つくれや」って。「いや、そんなん・・」って言うたら「大丈夫大丈夫、誰もやったことない。誰がやっても一緒や。」ってまたおんなじこと言うんですよ。

なんで学校作ったかっていうと、漫才ブームで芸人は芸の消費が早かったんで商品が足りないわけじゃないですか。弟子とか付き人で3〜5年かかるの待ってられへんから、即席で早よ欲しかったんですね。せやけど下手くそ出されへんから、まぁ1年は我慢しよかってことで学校つくったんです。

「大阪でお笑い学校作ったんはイノベーションやな」って時々言うてくれる人いるんですけどね、お笑いの学校は大阪で4つ目なんですよ。ネットも無いから、どんな授業してんのかとか月謝なんぼとってんのか知りたいじゃないですか。だから僕がアホな学生のふりして他の学校のパンフレットをもらいに行くわけですよ。「すんません〜漫才師なりたいんですけどパンフレットください〜。」って(笑)

色々ありましたけど、そんな所から始めてNSCを1982年の4月に開校させました。

塩)で、その1期生がダウンタウンだったんですね。

竹)「松本くん、浜田くん、一緒に面接きてんのか。こっちおいで〜」って、そんな感じですよ。他も西村美紀っていう「DJなりたいんです」っていう子がきて「よっしゃDJなったらええわ〜」って来たんがハイヒールのリンゴさんです。学校入って半年ぐらいで「竹中さん、いつからDJ専門の授業始まるんですか?」ってあの子言うてきたんですけど「あれ、そんなん言うてたっけ?」って僕ほんまに忘れてましたね。目の前が真っ暗になったって言うてましたけどね(笑)「そんなん漫才でもやって露出増えたらあとでなんぼでもできるやん」ってうまいこと言うて、漫才やってもらったんです。吉本新喜劇の内場勝則くんも一期生やし、先輩見て次の二期生が入ってくるわけじゃないですか。だから僕は何もしてないけど一期生が突っ走ってくれたおかげであの学校はうまくいったんですね。

塩)NSCを入社して半年で担当っていうのもすごいですよね。大抜擢です。

■吉本を辞めた本当の理由は?

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塩)去年の夏に吉本を辞められたんですよね?辞めるっていうのは何が一番大きな・・?

竹)あんまり言うてないですけど、吉本入ったお陰で35年間、笑うことをを忘れてましたから。毎日、笑てる場合じゃないぞって感じでした。やっと最近笑えるようになりました。映画もそうなんですよ。昔、10数本映画製作をしたんですけど、映画を作った日から映画を楽しめなくなって。「この映画台本悪いなぁ」とか「この宣伝うまいなぁ」とかそんなことばっか気になってね、映画見に行っても全然楽しくなかったんですよ。だから好きなこと仕事にしたらあきませんよ。大好きなもんはちょっと置いとくくらいがちょうどいいんです。仕事ってなったらスイッチが入っちゃうんです。いや、ほんまこれが不幸ですよ。

「そろそろ自分のことも考えやなあかんなぁ」「自分の時間もほしいしなぁ」って考えている時に、もうこれ辞めたらいいんちゃう?って思ったんです。

(吉本でがむしゃらに働いていた頃から、「はたらく」の価値観が変わり、現在ミクル株式会社のCINOとして活躍されている竹中さん。「どんな仕事をしているんですか?」という質問に、「内緒(笑)」と言いながらも、少し働き方を教えてくれました。)

竹)今僕がいるミクルは本社も事務所も会議もないんですよ。「会社って頭の中にあるもんやから、いらんよね。」ってことで。満員電車に揺られることも、遅刻して怒られることもないんです。みんな自分のせなあかんことを理解しているから「ほうれんそう」(報告・連絡・相談)もないんです。うちの会社のビジョンは「家族を大事にすること」。「家族大事にせんやつが、会社も社会も変えれるかいな」っていうことで、家族中心なんです。だからみんなのスケジュールお互い見ると、ほとんど「娘の歯医者についていく」「嫁はんと旅行いく」って書いてて。「あ、この人旅行に行ってるから、会議はそこの予定を避けてやらなあかんな」ってことがわかるように打ち込んでるんですよ。今になって、家族っていいなって思えるようになったんです。距離感というか存在ってほんと大事だと思うんですよ。遅いですけどね。その辺が今の会社はぴったりだったんですよ。

■竹中さんが考える「大阪を面白くする方法」とは

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(竹中さんのポケットから出てきたのは、3つのちょっと変わったサイコロ。各面にテーマが書かれているサイコロを使って、自分1人では気付けなかった自分の考えやアイデアを引き出していくアイテムだそう。そんな竹中さんが描く「大阪を面白くする方法」とは?)

竹)小学校の授業に「国語・算数・理科・社会・アイデア」にしてほしいですね。毎週何曜日の何時から何時は、ある小学校の全員がこのサイコロ転がしてなんか喋ってる。これ「ひらめきダイス」って言うんですけど、出た目にそって自己紹介したり、アイデア出したりして、「何年何組は1時間で400個だしました!すごいな!」みたいなことやってみたいですね。実は東京でもこんなセッションやるんですけどね、東京はシュッとしたこと言いよるんですよ。大阪でやったら、どっかでおもろいこと言おうとしよるんですよね。大阪人は「自虐の美学」を持っているんですよ。笑われるのが嬉しいんです。それをもっと活性化するために、「国語・算数・理科・社会・アイデア」ですよ。それを小学校の時にやっといたら、大阪からまたいろんな発明やイノベーションが生まれるはずなんですよ。だからとりあえず僕は教育を変える!!どうっすかこれ。

あと、病院のあり方みたいなのも考えたいね。僕も実は20年くらい前に当時の社長に、「誰もやったことないことで何したい?」って聞かれた時に「病院つくりたい」って言ったんですよ。手術も薬もいらん病院で、みんな健康で最後家族も笑って死にますねん。笑い死にの病院ね。そんな形で死と付き合えるようになってくれたら、僕も入りたいね。

■エピローグ

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(あっという間にトークイベントは終わりを迎え、最後に竹中さんからメッセージをいただきました。)

竹)後ろ向きなこととか悪口とかで会話に花が咲く時ってあるんですよね。それ何も新しいもの生まないんですけど、残念なことに盛り上がるんです。それに染まりそうになったから、僕は一切やめたんです。「前向きに生きる」。これは、気の持ちようなんです。だから僕は今毎日楽しいですよ、ほんまに。ここに来た人たちは後ろ向きと悪口の花園には行ったらいかん!それくらいかな、今日は(笑)

その時その時の自分に合った働き方、生き方を選び、自分らしく、人生を楽しまれている姿がとても印象的でした。どんな「無茶振り」にも前向きに生き抜いてこられたその言葉に、励まされた方も多かったのではないでしょうか。

さて、竹中さんのはたらくセカイもこれにて終了です。
次回のはたらくセカイもお楽しみに!